第2部 礼典諸式 第21節 小児告別式 幼児を失った両親は特別な悲しみの中にあるから、同情と理解をもって接し、祈りをもって慰めつつ、この機会に両親および家族を信仰の深みに導くべきである。告別式は懇ろに執り行い、大人の告別式に準じて行う。歌は主として子供向きのものを用いるのがよい。 賛美 聖歌 687「まもなくかなたの」 讃美歌 458「ふたたび主イエスの」 聖書 マタイの福音書18章1-5、10節 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが1番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で1番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。……あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 ルカの福音書18章15-17節 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」 祈祷 私たちの主イエス・キリストの父よ、主イエスはご在世当時、御手を伸べて幼子たちを祝福し、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と言われました。私たちの愛するこの幼子は、計り知ることのできないご摂理によって主イエスのみもとに召されました。私たちは、幼子を愛してくださる主が、変らない慈愛の御手をもって彼を導き、天国に伴われたことを信じます。たといわずかの月日でも、いとしい幼子をこの家庭に授けて、私たちに喜びと幸いを与えてくださった恵みを感謝いたします。 みもとに召された幼子が、この世のけがれから離れて、清い御光の中に住み、天の使と聖徒たちの群れに加えられて、聖なる御名をほめたたえていることを思い、御名をあがめます。しかしながら主よ、この幼子を失って悲しみのうちにある者の上に、天来の慰めと希望の光を豊かに与えてください。 私たちは今この幼子としばしの別れを惜しむとはいえ、主イエスのご再臨の 時、栄光の主の御前で愛する者と再会し、共に永遠のいのちにあずかることを信じ、その日を待ちつつ全能者の御手におゆだねいたします。 願わくは慈愛の父よ、私たちの目から悲しみの涙をぬぐい去ってください。主イエスの御名によってお祈りいたします。 アーメン。 幼児を失った親たちへの慰めのことば ある外国の墓地に、小さな美しい石があった。その墓石には次のような詩が記されていた。 「ひとりの人が美しい花園に近づいて来た。彼は、そこに、開けぱ立派な花になるつぼみが摘み取られてあるのを見て驚いた。そこで彼は、それがだれの仕業か、園丁に尋ねた。すると園丁は、『それはほかの人ではない。園の主人です』と答えた。あの優しく情深い園の主人が、虫に食われず、風に折られないまえに、その花を摘み取って自分の部屋に移したのであった。尋ねた人は黙した!園丁も黙した!そして再び尋ねようとはしなかった。また再び答えようともしなかった。」 2人は沈黙のうちに、自ずから疑問が解け、理解もできたのであった。それゆえ、そのつぼみを摘んだ主が、天の父であったと知ったならば、天来の慰めが人知れずその人の心のうちに満ちたであろう。 愛児を失った親心には、他人の慰めのことばが心に通じないものである。しかし、神の愛はこのように傷む心をも慰めることができるのである。